登入分かりやすく動揺して、俺と指輪を交互に見て、頭を抱える。「一日中、それ付けたまま過ごしてた。 歯磨いて、着替えて、車で俺の隣に座って、普通に喋って、笑って」「……じゃあさ、IKEA行ったのも……?」「逆に聞くけど。何のために行ったと思ってた?」「え、えっと……普通に、デート……?」 内心でため息をついて、その額を小突かずにはいられなかった。「ほんとバカ。同棲の下見以外に、何があるんだよ」 小瀧の瞳が、ゆっくりと潤んでいく。「……ねえ、佐伯。ちゃんと……言葉で、伝えてほしいんだけど」 潤んだ大きな瞳で、真正面から見つめられる。 逃げ場のない視線だった。 理屈も計算も一切通じない、感情だけの要求。 それを拒めるほど、俺は冷酷じゃない。「……分かった」 短く答えて、床に片膝をつく。 視線を向けると、小瀧の呼吸が一瞬止まったのが分かった。 ベッドに腰掛ける小瀧の手を取り、指輪を嵌めた薬指に、静かに唇を落とす。 誓いは、演出じゃない。 必要な言葉を、必要なだけ使う場だ。「俺の人生をかけて、全てを捧げてでも。南緒を幸せにするって誓う。南緒なしの人生は考えられない。……ずっと、俺の隣で笑っててほしい」 言い切る前から、小瀧の涙腺は決壊していた。 溜めていた涙が、堰を切ったように零れ落ちる。「俺の家に、灯りをともして待っててくれるって言ったじゃん。だから、大学を出るまで、ここで一緒に暮らそう。卒業して、ある程度仕事したら……フランスに来て。俺と、結婚してほしい」 当然、頷くと思っていた。 けれど最初に返ってきたのは、不安に塗れた言葉だった。「……ねぇ、本当に……お、俺でいいの……? うるさいし、バカだし……っ。お釣りの計算できないし、カップラーメンもレンジで温めちゃうし……」 自覚は、あるらしい。 少なくなる出し方の計算が出来ずに、財布に溜まり続ける小銭。 カップラーメンを作る時、お湯がないからと水を入れて電子レンジに突っ込んで、飛び散った青い閃光にパニックを起こしていたこともあった。「いいよ。そういうの、俺の人生と無縁すぎて、逆に面白いし」 理解不能な行動を、平然と繰り出してくる。 怒りながらも、どこかで楽しんでいる自分がいるのも事実だった。 あり得ないことが、あり得る。 小瀧はいつも、それ
「し、新婚旅行? 待って、何の話? 飛躍しすぎじゃない?」「は? どうせそのうち行くに決まってんだから、飛躍はしてないだろ」 小瀧が盛大に咽せた。咳き込みながら目尻に涙を溜め、非難の色を隠しもしない視線を向けてくる。 なぜそんな反応になるのかが分からない。 行くことが前提の話をしただけだ。予定の確認ですらない。事実の提示だ。「そ、そういうのってさぁ、ロマンチックなレストランとか予約して、プロポーズして、指輪嵌めてから二人で考える事だから! てか、フランスの人ってめちゃくちゃ熱烈なプロポーズとかするもんなんじゃないの? この前テレビで見たもん、見てるこっちが恥ずかしくなるようなあっちぃ事言ってんの!」 情報量が多い。 しかも論点が散らかっている。さすがFラン。 ロマンチック、レストラン、テレビ、フランス人。 どれも意思決定には不要な要素だ。「うわ、めんどくせ……俺がそういう事すんの好きじゃねぇって分かるだろ、普通」 感情を盛り上げる儀式に価値を感じないのは、今に始まったことじゃない。 それを「普通」と言っていいかは知らないが、少なくとも小瀧は理解しているはずだと思っていた。「佐伯の好き嫌いなんか聞いてねーし! あー、もう。とにかく、佐伯は順序がおかしいってば」 順序。 その単語が出てきた時点で、また小瀧基準の話かと思った。「いつか妻にしてくれるんですよね?」と聞いてきたのは向こうだ。 だから「パスポートを作れ」と言った。「嫁に貰ってやってもいい」とも言った。 指輪も受け取った。 そして、今も身につけている。 それでも足りないらしい。 レストランという舞台装置と、感情過多な台詞と、外野から仕入れた「フランス人像」が揃って、ようやく正しい順序になるようだ。 理解はできないが、把握はした。 頭の出来は良くないのに、そういう余計な情報だけは記憶に残る。その選別基準の歪さが、少しだけ興味深かった。 こちらは合意と事実で進める。向こうは雰囲気と感情で納得したい。 噛み合わない理由を考えるのは無駄。そう結論づけて、俺は家に帰った。*** 上着をハンガーにかけ、ベッドに腰を下ろした瞬間だった。 小瀧は迷いも躊躇もなく、当然の動作みたいに俺の脚に跨ってくる。 身体が崩れないように腰に手を添えると、小瀧
翌朝は、小瀧の反応を確認するため、いつもより少しだけ早く起きてコーヒーを飲んでいた。 待ち構える、というほど大袈裟でもないが、状況確認のための準備だ。 片手でスマホを操作していると、寝室から小瀧が出て来た。 左手の薬指には、当然のように婚約指輪を嵌めたまま。 ただ、想像していた反応がない。 歓声でも、抗議でも、何かしらのリアクションがあると思っていたが、それがない。 小瀧はそのまま洗面所へ行き、歯ブラシを咥え、寝癖頭のまま目を擦っている。 一瞬だけ、まさか気付いていないのか、という考えが頭を掠めた。しかし、流石にそれはないだろうと即座に否定する。それでも視線が外せず、無意識に凝視していた。 何も言わない理由は何だ。恥ずかしいのか? それとも、もう「パスポートを作れ」とも言われたし、「はいはい、指輪ね」と処理済みなのか。 大抵のことは予測の範囲内なのに、この沈黙だけは判断材料が足りなかった。 まあ、ノーリアクションでも別にいいか。話は早い方がいい。 お互い大学とバイトで時間は限られている。小瀧が了承している前提なら、今からIKEAに行って、最低限、同棲に必要なベッドだけは決めたい。「あと20分で出る」「はぁ!?鬼!恋人がお洒落する時間もくれないなんて!」「別にお洒落なんかしなくてもいいだろ、その顔面なら」 事実を言っただけなのに。 なぜか小瀧はそれを悪意として受け取ったらしく、「悪魔」だの何だの、歯ブラシを咥えたまま一方的に罵ってくる。 どこをどう誤解したのか分からない。 ただ単に、思っていることをそのまま口にしただけだ。 服装も髪型も関係ない。 俺から見れば小瀧は「普通に」整っている。 というか、変にお洒落なんかして欲しくないのが本音だった。 芸能人みたいに綺麗とか、可愛いとかではないにしろ、コイツには人の目を惹きつける華がある。 文句を垂れ流しながらも、結局俺のクローゼットからカーディガンを引っ張り出して黙って羽織っている。 さっきまで怒っていたくせに、この行動は変わらない。 こいつは俺の匂いというか、俺のものに包まれている状態が好きなんだろう。恋人になる前からそうだ。 俺の匂いを香水と勘違いして好きだのなんだの言ってきたこともあった。もはや習性だ。 そう考えると、人間という
俺を産んだ人の顔も、声もほとんど思い出せないのに。 異常だ。未熟だ。 それでも――永久に手に入れられないと分かっているから。 五歳の誕生日の夜に、それを突きつけられたから。 小瀧に、必死で母性と愛情を求めてしまう。「……は、ぁっ……奥、それ以上だめ……!」 涙声で言われても、止めることが出来ない。 熱くて、絡みついて、蕩けさせるような快感と、もう二度と手に入らない「何か」を埋めて欲しい衝動。 激しくは動かさずに、そっと小瀧の下腹部に触れながら、限界まで自身を奥へ奥へと沈める。 罪悪感を感じながらも、歯止めが効かない。「苦しいよな……ごめん、ごめん、南緒……っ」 毎回毎回、これの繰り返し。 小瀧はまさか、俺がそんな歪んだ気持ちで身体を打ちつけているなんて思いもしないだろう。「は、ぁっ……澄人、気持ちい……?」「うん。すげぇ気持ちいい。……安心する。もう少しこのままでも良い?」「ん……いいよ……」「南緒のことも、ちゃんと気持ち良くするから」 打ち明ける勇気もない。 ただただ、体の内側で腫れ上がって、破れそうに膨らんで。 自分がどんな顔をしているのかも分からない。 けど、小瀧はいつも、俺の心の奥を見透かすみたいに言うのだ。 「……澄人のこと、俺の身体で慰められるなら、嬉しい……」 小瀧に受け止めてもらえることで、満たされるのを繰り返していた。 ハグも、キスも、セックスも。どれも確かに愛情を伝えるための手段。 けれど今夜だけは、それよりもずっと明確に、「言葉」で伝えたいことがあった。「……愛してる」 多分、付き合ってから初めて口にした言葉だった。 ずっと言わなかったのは、言葉にしてしまえば、羽よりも軽くなって、どこかへ飛んでいってしまいそうな気がしていたからだ。「……うん、俺も……っ」 そう返す小瀧の顔が、驚くほど素直で、心から嬉しそうで。 体を震わせながら首元にしがみついて、すべてを預けてくる姿を見て、はっきりと思った。 ――ああ、やっぱり、一生離してやれない。 事が終わると、小瀧は俺の腕の中で力を抜き、ゆっくりと呼吸を整えていた。 背中に回した手で、一定のリズムで撫でる。 汗と体温と、混じり合った匂いが、まだはっきりと残っている。 小瀧は何も言わず、俺の胸に額を押しつけてきた
週末の勤務を乗り越え、小瀧がうちへ泊まりに来た。 一緒にシャワーを浴びて、バスタブに浸かりながら、いつまでも途切れることなく小瀧はお喋りに夢中だった。 後ろから軽く顎を掴んで振り向かせ、軽くキスをすると急に大人しくなる。 うなじに、濡れた襟足が水を含んで張り付いているのが目に入る。そこへ唇を寄せると、小瀧は「くすぐったい」と声を上げて笑った。 そういう、無防備な反応ひとつひとつが、いちいち構いたくなる理由のひとつだった。 風呂から上がると、小瀧は俺の部屋着を、もはや当然のような顔で着込む。 袖が長くて、何度もまくり直しながら、野菜がたっぷりと入った寄せ鍋を作ってくれた。「お前、いい加減自分の服置いておけよ。料理しにくいだろ」「え? ……ヤダ。あったかいんだもん。これでいいの」 理由をつけているつもりなんだろうが、俺からすれば分かりやすすぎる。 恋人の服を着ていたい。それだけの話なのに、わざわざもっともらしい言い訳を足す。 付き合う前から変わらない。こういうところでだけ、妙に意地を張る。 それが照れだと分かっているから、こちらも敢えて突っ込まない。「佐伯、ラップ取って。届かない」「はいはい」 背後から身体を密着させるようにして取ってやると、分かりやすく恥ずかしがる。耳まで真っ赤だ。 そのついでに耳朶を軽く食むと、またぎゃあぎゃあ言いながら、あっちに行けと言わんばかり軽いパンチを背中に寄越す。 その反応が見たいだけ。 小瀧が届かないと分かっていて、わざと届かない位置にいつも置いていた。*** 夕飯を済ませて、小瀧が料理をしてくれた分、食器洗いは俺が担当した。 キッチンから戻ると、小瀧はテレビをぼんやり眺めていて、眠気を誤魔化すようにあくびを噛み殺しながら、俺が戻るのを待っていた。 膝を抱えている手首をそっと掴む。 それだけで、何を求めているかは伝わったらしい。 小瀧は何も言わずに立ち上がり、そのまま寝室へ引かれていく。 抵抗はない。むしろ、当然の流れだと理解している顔をしている。 ベッドの前まで来ると、小瀧は自分から腰を下ろした。 一瞬だけこちらを見る視線が、すぐに逸れる。「まだ、恥ずかしい?」「……うん」 何度も体を重ねてきたというのに、こちらが少し甘い空気を纏わせるだけで、分
十二月の銀座は、街そのものがクリスマスを祝福しているようだった。 通り沿いの街路樹は、葉を落とした代わりに無数のイルミネーションで光を纏っている。 日が落ち切る前から灯り始めたそれらは、ビルのガラスやショーウィンドウに反射して、歩道を歩く人々を光で縁取っていた。 大学で五限の講義を終え、今日はバイトもない。 小瀧は遅番だと言っていたから、会う予定もなかった。意図的にそうしたわけじゃないけれど、今日は一人で動く必要があった。 人の流れに逆らいながら、足は自然と目的地へ向かう。 見えてきたのは、カルティエのロゴ。 リニューアルしたばかりだという建物は、白を基調とした外観で、クリスマスに向けた控えめな装飾が施されていた。 ここに来る理由は、明確だった。 曖昧にしていい工程じゃないし、先延ばしにする意味もない。 店内に足を踏み入れた途端、外のざわめきも、車の音も遮断され、空気は澄んだものに変わった。 店内の空間設計は無駄がなく、時間の流れすら別物のように感じられた。「いらっしゃいませ」 柔らかい声に、俺は一度だけ頷く。余計な言葉は要らない。「婚約指輪を探しています」 それだけ言えば十分だった。 店員の表情が一瞬で切り替わるのを、冷静に観察する。 案内されたのは、店内の最奥。ガラスケースの前で、店員は慣れた手つきで指輪を並べていく。 どれも美しいデザインだと思ったし、どれを選んでも正解に見える。だからこそ、選ぶ理由が重要だった。「こちらはカルティエの定番、ソリテールです。一粒ダイヤはラウンド・ブリリアントカットを施しており、最も存在感のあるコレクションです」 その説明の通り、目を見張るほどのダイヤは確かに美しい輝きを放っていた。ケースの中でも一際鮮烈で、視線を集める。ただ、それは俺にとっては露骨なデザインに感じられた。 日常に溶け込むというより、ダイヤの大きさが「特別」を主張しすぎている。 俺は小さく首を振った。「もう少し、柔らかい印象のものはありますか。シンプルなもので、気品や調和をイメージさせるような」 店員は一瞬だけ考え、別のケースを開けた。「でしたら……こちらは本来、結婚指輪なのですが。いかがでしょうか、バレリーナと申します」 オフホワイトのベルベット素材で出来たトレーに置かれたその指輪を見た
玄関で、持ち物の最終チェックをする。「スマホ……鍵……PASMO……ケーキ……よし!」 これから俺は人生初の――“彼氏の誕生日サプライズ♡突撃訪問”を敢行する。 佐伯の驚いた顔が見たい。喜んでくれたら嬉しい。 驚くだけでもいいし、呆れられても怒られてもいい。 とにかく、俺がしたことに反応してくれたらそれだけでいい。 そう思ったら体が勝手に動いていた。 俺はルンルン気分で、バカみたいに浮かれながら玄関のドアを勢いよく閉めた。 * 佐伯の家の最寄り駅で電車を降りた瞬間、胸の高鳴りも歩幅も自然と弾んだ。「十一時……うん、余裕で間に合う」 声が緩む。ケーキは少し重い。し
――早く帰ってきてほしい。 そう思った瞬間、不意に目からぽろっと涙が落ちた。 慌てて袖口で拭っても、また溢れて、止まらない。 さっきまで我慢できてたのに。 バイト先じゃ絶対そんな素振り出せないから、こうしてひとりになると、全部一気に出てくる。(……早く、帰ってきて。 俺のこと、またちゃんと見てほしい。) そう願うたびに寂しさが積み重なって、胸が苦しくなる。 そんなとき、スマホの通知音が鳴った。 高橋から。インスタのストーリーズのスクショだ。 “これは流石にやばくね?” 変な胸騒ぎを覚えながら、タップする。 そこには、居酒屋の料理と、向かい側に座る人のビール……
「ね? 小瀧さん」 目が笑っていない。 何に同意を求めているのか分からないまま、俺はただ黙ってその顔を見つめる。胸の奥がざわついて、息をするのも少し緩慢になった気がする。 橋本くんの視線が、まるで俺の心の奥まで覗き込んでいるようで、変な汗が背中を伝う。 すると、橋本くんは声を少し顰め、耳元で小さく囁いた。「ごめんなさい♡ 澄人さんのこと、奪っちゃいますね」 その言葉をもう一度確かめるより前に、橋本くんはにっこりと笑ってくるりと背中を向け、軽やかに接客に戻りクレープを作り始めた。 俺は固まったまま、体が動かない。 心臓が、胸の中で暴れている。 ――橋本くん、俺と佐伯が付
「……はい、おしまい」 ぽんぽん、と軽く肩を叩いて合図を送る。だが、佐伯は離れるどころか、逃がさないと言わんばかりに俺の腕を強く掴んできた。 抵抗する間もなくソファまで連行され、強引に体の向きを変えられる。そのまま、俺の太ももには佐伯の後頭部がずしりと乗せられた。「は!? ちょ、なに」 「ここがいい」 迷いのない即答。「いい、じゃないんだよ。重いし」 「大丈夫」 何が大丈夫なんだよ。 心の中で毒づきながらも、完全に退路を断たれた角度で膝枕が完成する。佐伯は満足したように小さく吐息を漏らすと、ゆっくりと瞼を閉じた。 ……なんだこれ。「今日どうしたの? 澄人。やけに甘